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Beauty Source キレイの魔法

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クレア1843『オペラの華』

「クレア 1843年」

『オペラの華』

プリマにはなれないことが、自分でもそろそろわかり始めていた頃、
私はあの方に会った。それも、とても特異な場所で。

スコットランドから流れてきてオペラ座で道具係りをしていた父。
同じくオペラ座でダンサーをしていた母は私が物心ついたときはすでに引退し、
父とパリで帽子店兼小間物屋を開いていた。
相変わらずオペラ座に出入りしていた父は、舞台で使う被りものや、観客に届けるちょっとした小物などを用意する。
生活は豊かではなかったけれど、仲のよい夫婦。
その分、私を筆頭に子どもがどんどん増える。
父と一緒にオペラ座に届け物をしていた私は、自然に早く家を出ることになり
寄宿生活も3年目を向かえていた。

オペラ座の踊り子たちの日常は過酷だ。
寄宿生として生活全般が安定している代わりに、常時公演をして外貨を稼ぐことを奨励されている身分だから
昼間はみっちりと基礎練習や振り付け、夜は公演のはねる深夜までオペラ座に釘付けになる。
遊ぶ間などない。
「ここはね、華やかな修道院ってところね。パリ中央修道院。」
そんな冗談を飛び交わせながら、ある者はプリマを目指してひたすら精進し、
ある者はお金持ちの目にとまることをあからさまに示して、これも自分を際立たせることに腐心する。

私といえば、そのどちらにもなり切れない。
ただ、重心が微動だにしないピルエットができ、振り付けを覚えるのだけは異常に早い。
頭ひとつ皆より高く、誰よりも正確に踊る私に向かって叫ぶ振付師。
「クレアを見て、お手本にするのよ。」
真似する者が多いということは、結局私も大勢の中の一人。
主役はいつも違う誰かのものになるのだった。

あるとき、事件が起った。
公演を前にして、プリマドンナがパトロンの一人と失踪したのだ。
オペラ座は大騒ぎになったが、なすすべもない。
公演初日は一日伸ばされることになり、なんとか見つかった代わりのプリマのために
その日の夜はバレエのレッスン場を明け渡すことになった。
何でも、彼女はひとりで練習したいのだそうだ。
気前のよいプリマにいく分こずかいをもらい、私たちは夕暮れの町に出た。
「公園にサーカスが来ているんですって。」
軽い好奇心から覗いてみることにしたこの見世物小屋で、私の運命を分ける出会いがあろうとは。

あの方は、薄暗い檻の中にいた。
鞭でひどくぶたれ、被せられた麻袋を剥がされた顔は真っ黒に汚れていて、
番人が言う「悪魔の申し子」の形状をしているのかさえ、よくわからなかった。
他の見世物だって、本人たちがいかにもおどろおどろしい声音を出したり、叫んだりするものだから、
見ている方もそれに合わせて悲鳴を上げるだけで、よく見れば舞台裏にもよくある付け髭やメイクだったり
私たちにも難なくできるアクロバットだったりした。
それが暗闇で浮かびあがると、粗雑な出来なだけにかえって雰囲気がある。
あの方は、あの方自身が見世物にされようという意志をもっていないだけに、
私にはただ、哀れなものとしてうつった。

ひとしきり檻の中に小銭が投げられ、番人がそれを数えているとき、私はまだそこにいた。
妙なる声が聴こえてきたからだ。
カチカチと何か金属を合わせる音とともに、うつむいたあの方の口から洩れ出るメロディ。

「仮面舞踏会 紙の仮面達のパレード
 マスカレード 顔を隠して 
 けっして 見つからないように 」

うっとりと聴き入る私の目の前で、突然、信じられない光景が展開した。
いきなりあの方が、番人を背後から鞭で締め上げたのだ。

一部始終を見ていた私に、何故か迷いはなかった。
ぬいぐるみを抱きしめているあの方の手を取り、パリの街を縫うように駆け抜け、オペラ座へとひた走ったのだ。
母から、礼拝室の地下に続く、皆に忘れられた物置部屋(母はここで、父と会っていたらしい)のことを
教えられていた私は、あの方をそこに隠し、そしらぬ振りで寄宿室へ戻った。
他の皆は、私がひと足先に帰ったのだろうと思っていて、何の疑いももたれなかった。

それから私は、毎日あの方のもとへ食事を運んだ。
はじめは、なにかしらペットを飼っているような気持ちだった。
オペラ座の中で、犬や猫を飼っている者はたくさんいたし、誰の持ち物でもない
小動物もそこかしこにたむろしていた。
自分の食事の一部を分けるのは特に咎められることではなかったし、
食事係りの夫婦は気が良いので、頼んでおけば「可愛いペット」のための
縁の欠けた食器に載せた食べものを取っておいてもらうのは、わけのないことだった。
当時、ここには700人以上が住んでいたから、ひと一人増えても目立つこともない。
食事以外にも、私は衣服や洗い桶を運び、あの方はだんだんと身綺麗になっていった。

顔を見せることは、相変わらず避けたい様子だった。
私が訪ねるのは、レッスンの始まる早朝。
地下二階にある物置小屋に、日が射すことはないのだけれど、あの麻袋を取ることはめったになかった。
使われなくなった舞台衣装に身を包んだ体に、汚れた袋はいかにも不似合いなので
私は美しい仮面を使うことを思いついた。
ヴェネツィアを舞台にしたオペラをやったとき、白い面に色とりどりの縁飾りをつけた仮面がたくさん作られ、
小道具部屋に山積みになっていたのだ。
「どれでも好きなのを。」
10個ほど広げて、あの方の気を惹くようにしてみる。
それはなんだか、可愛いペットの前に美味しいエサを並べているような気持ちだった。
あの方はゆっくりと吟味し、青い縁飾りのついた仮面を手にとった。

思った通りだった。
あの方は、本当は醜くなどない。
顔半分を隠してしまえば見えている部分は滑らかで、むしろ美しい部類に入る。
そして瞳の吸い込まれるような輝き。
物置小屋に積まれた本と、片隅にあるピアノを相手に静かに過ごしている様子は
とても上品で、私などよりよほど高い教育を受けてきたのではないかと思われた。
画材を所望されたので、見繕って持ってゆくとたちまち素晴らしい絵が生まれた。
手先も器用で、檻から持ち出した猿のぬいぐるみは、物置部屋にあった
古いオルゴールと組み合わされ、螺旋巻きでシンバルを叩くようになっていた。

オルゴールから聴こえてくるのは、見世物小屋であの方が歌っていた曲。
誰の曲かと尋ねると、他にも自らの作品をいくつも、こともなげに五線紙に書き散らして、
ピアノの前で歌い奏でてくれる。
私は傍らで、優雅な調べに身をまかせる。
はじめ、あの方をペットのように思っていた私は、いつしか彼の崇拝者だった。

あの方は、ときおり物置小屋をこっそり抜け出ているようだった。
リハーサル中の新作オペラの楽曲を、いつのまにか奏でていることがよくあったからだ。
はじめは危険にも思えたけれど、オペラ座の目ざとい連中の噂にもならない。
私もそれに慣れ、あの方の求めに応じて振り付けを見せることもあった。

「君は、とても正確に踊るのだね。」
「はい。それだけが、私の取り得なんです。」
「正確さは大いなる才能だよ。
僕を指導した教授も、自分のイメージ通りに形を作り上げること、正確さを褒めてくれた。」
あの方にはわかっていたのだと思う。
私のバレエには正確さはあっても、華がないということを。
プリマドンナに必要な、手の届かぬ華。
仮面の奥に秘められた、数々の美しい華を持つあの方の言葉を受けたことが
後の私の歩む道を決めたのかもしれない。


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